三次高校時代は、
硬式野球部に所属し、
「県北の雄」という枕詞の付く球史の一旦を担っていました。
高校1年次の「遠足」より 1年7組
高校2年次の春季県大会にて準優勝(2番レフト)、中国大会出場。
準決勝の対広陵高校戦より 2対1で勝利
決勝戦の対広島商業戦より 3対4で準優勝
そして、
夏の大会では、
その年のプロ野球ドラフトで、
広島カープから2位指名された望月投手を擁する竹原高校に1回戦で当たり、
屈指の好カードといわれつつ敗戦。
9回まで、望月投手にノーヒットノーランをされていましたが、
最後に1本のヒットを打ったのが私でした。
唯一のヒットを放った後、
塁上での私
当時の広島県は、
私たちの2級上の広島商業が「夏の甲子園」にて全国制覇し、
1級下の崇徳高校が「春の選抜」にて優勝という強豪県の時代でした。
2級上の元巨人の角(鳥取工業)、
1級上の望月(竹原高校)・田所(広島商業)、
同級の小林(広島工業)、
1級下の黒田(崇徳高校)と、
1級品の高校生投手と対戦した私ですが、
あの望月の投球には脱帽でした。
高校2年次の秋は「春の選抜」出場を目指し、よく練習しました。
もちろん、
今の練習方法とは少々違いますが・・・。
2年5組
硬式野球部の遠足 鞆の浦 仙酔島へ
いよいよ最終学年の3年次、
「夏の甲子園」予選の下馬評では、
優勝候補5校のうちに入っておりました。
3年次春季県大会、対広陵戦より
ランナーの私
左上のレフトの守備位置の私
「たら」
「れば」の話をしても仕方ないことは十分承知しております。
が、「審判も人間でした!」。
暑い夏が終わり、
6月のヤマハ「ポピュラーソングコンテスト」広島県大会を勝ち抜き、
8月の中国大会でも2位の成績を収め、
10月の「つま恋」全国大会に、
私が作曲した「彼の目」という曲がコマを進めました。
それが、
私を音楽の道へ誘ったことは間違いありませんが、
長男である私に、
家業を継いでほしいという願いを持っていたにも関わらず、
「後悔」を少しでも少なくしてやりたいという思いもあり、
「1年後(音楽の勉強はほぼやっていませんでしたので)、音楽大学に入学できたなら、
そのまま勉学に励むが好し!」という、
心配は尽きなかったと思いますが、
寛大な裁定を下してくれた両親・家族。
どこでどう間違ったのか、
「音楽」という雲をつかむような道へ、
「ヴィオラ」を片手に進むこととなったのが1975年11月、沖田孝司17歳と9か月の晩秋でした。
